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私は大江健三郎の87年作『懐かしい年への手紙』をそれ以降の大江文学を特徴づける自己言及性を顕著に示している作品と見る。自己言及は大江文学に限らず私小説作家のテクストにおいてもすでにその例は見られるが、大江の自己言及は次の2点において「私」を書く既存の作家とは異なる(本稿では葛西善蔵と宇野浩二2人の私小説作家を取り上げてその相違点を具体的に考察した)。その一つは一人称の語り手によるモノローグ的自己言及ではなく、様々な他者の声が行き来するポリフォニーの様相を帯びている点であり、今一つは「私」と対立する作中人物が批判者であれ理解者であれ書物からの引用に卓越な人物であり、彼らによって引用される書物の内容が「私」と「私」の作品に対する解釈と批判となっている点である。私は80年代後半以降大江がつくり出すこのようなメタフィクションの世界を新しい文学の可能性、つまり〈自己言及文学〉の可能性として捉えている。一般に自己言及システムはその環境世界とは循環的に閉じられているシステムであるように、他者へ向かって自己を差異化・異化しようとしても結局のところ自己へ還元してしまう閉鎖性を示す。しかし大江の自己言及はこのようなパラドックスの円輪を描いてはいない。本稿近年作『憂い顔の童子』を中心に大江の自己言及がいかに行われているのか、その実態と特徴を確認し、80年代後半以降の大江文学を〈自己言及文学〉として読む理由を「古義人」(デカルトのコギトを想起させる)という名前と大江の「私」に対する態度を通して説明し、大江の「私」探求の文学という新しいメタフィクションの可能性を示したものである。


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1980년대 후반이후, 자기언급성, 「私」의 탐구, 자기언급문학의 가능성