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本論文は現代日本語の文末のムドの助動詞化された「ものだ」と「のだ」との意味用法を通じて「相互置換適切性與否」を考察したものである. 「當爲のものだ」はある事態や存在について基本的にはその行爲を實行するのがただしいとの社會一般的に廣く通ずる槪念で話手が考えているのを提示することによって相手がその行爲を實行することをうながす. 「說明のものだ」はすでにおこった具體的な事件·事實·狀況などについてその理由(原因)などを說明することで新聞報道記事や文章語に主に使われる.「回想のものだ」は話手が過去事實についてある感慨やなつかしさをこめて回想する. 「當爲ののだ」は話手が相手に同じ命令をくりかえしたり社會一般的にのぞましいと思われる行爲の實行をうながし主張·强調する. 「說明ののだ」はある狀況や前·後文について說明するときまたはその原因·事情などの說明を求めるときに使う. 「回想ののだった」は話手がある事態(事件)を詠嘆的に述べ「聞手·讀者」を必要とする. 「ものだ」「のだ」が「相互置換適切な場合」は「說明」「當爲」からであり「置換不適切な場合」は「說明」「回想」用法からである.