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第7代朝鮮總督南次郞のもとで異例の大拔擢により學務局長心得に就任した鹽原時三郞は1938年7月に始まった日中事變下において皇民化政策推進の先頭に立って「皇國臣民」なる用語の發案しそれをもとに「皇國臣民の誓詞」や「皇國臣民體操」と從來溫めてきた國粹思想を次と實行へとうつしていったが學務局長就任後彼が最も力を入れたのが第3次朝鮮敎育令であった.この第3次朝鮮敎育令において鹽原が敎育の上で最も重視したのが「國語」と修身であった.特に修身は第3次敎育令における改正で小學校1年生から6年生における1週間における授業時間數をそれまでの2倍に增やすという大改正を行なっている.これは鹽原にとって第3次朝鮮敎育令の最重要課題である「忠良な皇國臣民の育成」のためには國語敎育と同時に修身において「皇國臣民」たるべき精神を養う必要性が增したと見たからといえるだろう.修身敎育の授業數の增加は總督府および鹽原の意向が大きく反映した結果だといえる. 志願兵制度成功如何ひいては將來の徵兵制實施に向けての命運もすべて日本語敎育及び修身敎育にかかっていたといっても過言ではない狀況にあったこの當時南統治の五大政綱の中で最も重視されたのもまた敎學振作であったといえるだろう.南次郞の招聘に應じて總督秘書官學務局長を歷任した鹽原時三郞は敎學振作重視の南統治の中樞において日中戰爭擴大と大陸進出の尖兵として辣腕をふるった意味で特筆すべき存在であるのである.