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「不審庵」という物語モデルは、異様でも独創的でもない。そうだからといって、ある物語集団を追従し、何らかの利益を得ようとする露骨な試みも見当たらない。制度を衝撃することもない。ただし、そこには有用な生存戦略を再確認(強化)させるという物語的な位相があるといえよう。制度やイデオロギーに編入するのは、それらの浮沈と連動するしかないのだが、そのような危機から逃れる有効な方法は、まさに編入を遅延させることにほかならない。「時代」、「聖戦下の国家」、「茶道」などのグランド․ナラティヴとコミュニケーション様式を、語り手のストラテジーの中に包括させて働かせる構造は、単純な笑劇ではなく、物語の安全を担保するカタリのモデルである。グランド․ナラティヴの重圧を、個人言説へと取り込んだことによって、前者の恐怖を限りなく薄めることに、「不審庵」の内在的な力学があるのである。なぜならば、「茶道」のような制度的装置の拡大版として「聖戦」遂行中の「国家」をとらえることもできるからである。それは 「聖戦」ではないだろうが、「聖戦」を規範として持った制度においては、「聖戦」であるしかない。「不審庵」が喜劇ではない理由がここにある。「不審庵」における物語の拡張と収斂過程は、ピラミッド構造、つまり上位のものが下位のものを規定する構造から抜け出すことは、まずできなかったのである。