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万葉集最後の歌が書かれたのが759年であるという。防人さきもり(崎守)とは上代 から平安時代にかけて壱岐対馬九州北岸の防備についた兵士である。天平2 (730)年以後、東国兵士がもっぱら派遣された。 南方系の縄文文化の列島へ、高句麗人達が稲作青銅器文化を携えて半島から 渡来し弥生時代が始まったのがBC400年以前のことである。それから1000年以上 経った622年、世界史的に見るとイスラム教が成立し、大和の国斑鳩の里では聖徳 太子が亡くなっている。百済と高句麗が滅亡したのがそれぞれ663年と668年であ る。こうしてみると当時なぜ、もともと高句麗人達が渡来してきた前進基地たる対馬海 峡や九州の防備が必要であったかが見えてくる。 ラテン語を話すローマ人が英仏海峡を渡った約1000年後の1066年に、ラテン語か ら派生したフランス語を話すノルマン人達が英国諸島を征服したように、今では列島 の主人公となった大陸韓語を話す高句麗人の後裔達は、同じ韓国語でも半島韓語を 話す百済と高句麗からの難民やそれを追う新羅軍に対処する必要に迫られていたので はないか。 この論文では万葉集のなかの高句麗語を検証してみた。その結果、防人の歌を 含む万葉集は圧倒的に高句麗語の世界であることが判明した。