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宮沢賢治と韓龍雲の詩における涙の象徴性 -修羅の涙と真珠の涙を中心として-                             沈 終 淑 本稿は宮沢賢治と韓龍雲の詩における涙の象徴性について《修羅の涙》と《真珠のなみだ》を中心に考察した。賢治の詩、「春と修羅」には《修羅の涙》という詩語がある。そして韓龍雲の詩集のニ厶の沈黙には《真珠の涙》と言う詩語がある。賢治の場合、修羅という否定的な内面意識から主体が泣く涙として表われ、これはラカンにおける視線の問題で主体が見られる主体である場合、主体の分裂によって苦悩する時の涙であった。また、この涙は詩の中の抒情的自我が自己の内面を見る場合、修羅としてのもの足りなさから来る見にくさである。その見にくさによる怒りは主体の外部から動因になって内部へ波及されながら自己を否定する力になる。自己否定は賢治にとって個人から離れて肯定的な世界を向かえるための自己批判でもある。見にくさと言う物足りなさから真に近づくために修羅は自己と闘う。そんな過程は妹のとし子の死後に爆発した内面の苦悩から徐々に解放されていて、「青森挽歌」等の一連の挽歌に見られるとし子との関係回復は賢治にとって自己克服でもあった。賢治の詩ではこのような重みの涙が軽みの涙へ変化していくのには「青森挽歌」の水のイメージがばねとなって再生と克服をする役割を果たす。この時、挽歌旅行はバシュルラールが言う死である。また、水を通過することによって死から離れて再生と克服をなすことになる。水という下降的イメージから上昇的イメージの象徴として鳥が使われている。 一方、韓龍雲の詩で涙は、ニ厶との別れによる悲しみの涙である。その涙の力が積もって真珠の涙になる。詩の中の語り手にとって真珠の涙は苦痛を表すが、積極的に収容しようとする。この真珠の涙は世の価値と異なるので詩の中の語り手は時間と空間を涙で満そうとする。また、後悔の中で見られる悔い改めは道徳的な誤りよりは主体の持つ根源的なもの足りなさから発端されている。そのため、救済の必然性を意識し、それが成長して結晶化されたのが水晶の涙である。すなわち、意識の透明性が水晶の涙に喩えられていた。賢治と韓龍雲の詩に表われる涙は弁証法的な契機を生み出すものとして位置づけられている。