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『閑中録』と『蜻蛉日記』は特定の読者を設定しており、潤色や強調、削除が行われたと窺われる。本稿は作品展開のターニングポイントである壬午禍変と東三条殿の記述を中心に、二人の作者の事實ないし本心が作品に投影されていく過程を追跡してみた。すなわち自敍の日記の本質と言うべき懺悔と告白のかわりに、潤色や強調、削除過程を通じて表われた作品の構成的な特徴を把握しようと試みたものである。 『閑中録』の其1の壬午禍變の記述で、恵慶宮が家門と家族を守りながら生き残るための手段として選んだ方法は、男性社会の政治的な欲望を告白せず沈黙することであった。しかし1795年の其1の和平の政局から変わって、純祖初期の1-2年の貞純王后側の慶州金氏の政局下の其2と其3では、壬午禍變の原因を自分を含めた洪氏家門に有利に記述しなければならない境遇に陥る。其4でも其3の記述をもとに、微妙な党争の問題を排除し、当時の多くの勢力の気にさわらない壬午禍變の名分を立てた。 『蜻蛉日記』で道綱母は、住いに対する記述を非常に敏感に表している。作者の家は結婚以前から‘左近の馬場をかたきしにし’た所だった。967年、兼家の計らいによって、東三条殿に入ることを前提に、‘近うさりぬべきところ’に移したが入居はできなかった。道綱母は自分の家を隔てられた所であると一貫して表わしているが、これは自分の家を卑下した表現ではなく、上流貴族の居住圏に暮している作者の誇りが含まれた表現である。作者の住いに対する欲望は3男2女を持つ時姫と比べられる自分の敗北感から生じたようである。日記の最後の973年の広幡中川の転居は、東三条殿の入居が叶わなかった上、養女の入內も不如意な状況で選んだ兼家に対する諦めの選択であった。 恵慶宮の内的な告白と懺悔を隠した虚構を書くという営みが『閑中録』の真実であり、これは人間の生存という本質を確認させた意図的な結果であったと言える。『蜻蛉日記』もまた日記文学の本質である‘自分の省察’から逸脱する姿を見せており、これは果てしない欲望を持て余した結果であった。政争に巻き込まれたことはあったが、恵慶宮は英ㆍ正ㆍ純祖に至る3代に王后の諡号まで受けて洪氏の家門を守った。一夫多妻制の矛盾した制度下で道綱母は摂関の上流貴族の身分で、在世中に息子道綱が公卿の座まで昇進する姿を見た。二つの日記作品は、時空を超越して、人類普遍の情緒というべき生存と欲求を希求する二人の生の過程を読者に見せ、解けない生の真実と虚構の問題を投げかけている。