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ペリー来航の衝撃で幕をあけた安政年間(一八五四~一八五九)というのは、外交ㆍ諸政策上において「鎖国」から開国へ大きく変わる転換点であった。この方針に歩調を合わせ、軍事技術上の改革も西洋知識ㆍ技術の本格的な受容に向け舵を切った。具体的には大船製造解禁や西洋砲術専一化の方針を掲げ、講武所ㆍ蕃書調所ㆍ長崎「海軍」傳習所ㆍ軍艦操練所が設立し、西洋の軍事技術の本格的受容と人材養成とに着手した。 本論文は、当時における西洋式軍事技術と知識の集約場であった長崎「海軍」傳習政策過程上の議論の再検討通じ、近世から近代への幕開けを幕府はどのように模索ㆍ対応しようとしており、幕府内部の政策決定において主要人物の海防認識の温度差を見出すものである。 まず、長崎奉行(後に勘定奉行兼)に命じられていた水野忠徳と、勘定方の第一人者であった松平近直は、将軍がいる江戸城の近海である江戸湾の内海まで異国船が侵入する状況に対し危機感を覚え、西洋式の軍艦と大砲を保有することで従来の海岸防備体制の限界を補うことを当面の優先課題とすべきであると認識していた。このような情勢の認識から長崎「海軍」傳習の短期的実施にも同意してものとみられる。留学や長期的専門教育の実施に対してもとりわけ勘定方は根強く反対しており、長期的な投資を要する「海軍」創設事業に比較的消極的であったと言えよう。 かたや、長崎「海軍」傳習の現場監督役であった永井尚志は西洋式の海軍創設および拡充に最も積極的な姿勢を見せていた。その考え方の根底には西洋式の海軍制度の導入を富国強兵策の一つと信じていたからと考えられる。永井は長崎傳習に引き続き、海外へ留学生を派遣することや江戸での軍艦操練所の創立まで見据えた上、実現に向け尽力した。海防掛の目付方も基本的に永井の意見に同意しつつ、諸藩にも「海軍」講習へ積極的に参加させることで、全国的な海防体制の強化を図ろうとしていた。ただし、目付方が認識ていた「海軍」とは、別途の独立した一つの組織ではなく、陸軍系の教育機関である講武所の傘下の一部局として位置づけようとしていたとみられる。 一方、老中阿部正弘は、「海軍」事業の拡充に対し慎重派であった松平近直と、最も積極的に推進することを主張する革新派の永井尚志の間で、比較的中立な立場をとっていたが、「決め兼ね」る傾向もあったとみられる。しかし、永井尚志が提案した日本人の海外留学派遣にも同意を示し、軍艦操練所開所にも賛成するなど、次第に永井の意見に寄り添う姿勢を見せていたものと考えられる。 以上のように、阿部政権において「海軍」とその専門教育機関の創設は、当初からの一貫した方針のもとで計画されたものではなく、傳習方針やあり方をめぐっても同床異夢の状態であったことが明らかとなる。しかし、その齟齬のなかでも、時勢上「海軍」を導入せざるをえないものとして危機感を共有していたことが注目される。その時勢への危機感の共有こそが前例のない長崎「海軍」伝習の実施へ導いたと言えよう。そして、実態からみえる安政年間における長崎「海軍」傳習は、陸上での守備に重点をおいた海防から、近代式の海軍への移行を試みる第一歩であったと言えよう。