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本稿は野坂昭如の「火垂るの墓」とスタジオジブリのアニメーション作品「火垂るの墓」を、語り手のナラティブの変容を中心に、比較考察したものである。野坂の原作においては、語り手によって物語が展開するが、アニメーションの場合、清太のモノローグからはじまり、彼が過去を回想する形で話が展開する。原作とアニメーションにおける語り手の相違は、そのまま作品の性質そのものの相違へと発展していく。つまり、原作における語り手のナラティブは、清太の立場を代弁するものの、時には清太を突き放した形で彼を描写することによって、ある統一された戦争像や被害者としの日本人像が構築されることを遮断する。しかし、アニメーションの場合、清太によるナラティブは、戦争の被害者としての清太自身と節子の悲惨な生活をえぐり出すことにウェイトを置いている。このようなナラティブは結局、戦争の犠牲となった無数の日本人を代弁することへと発展し、戦争の経験がない世代には過去の日本人がいかに戦争の犠牲者であったかを確認させる媒体となる。  アニメーション「火垂るの墓」は、今や原作を離れて独立した形で鑑賞され、新たな読者を確保しつつある。しかし、このようにメディアミックスが行われる過程において、前景化される被害者としての日本のイメージは、原作が持っている自省的な眼差しを遮る結果をもたらしかねない。その意味で、アニメーション「火垂るの墓」は、ナショナル・ナラティブ に対する欲望を端的に表出したものであると言える。