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『沈黙』は1966年3月新潮社より刊行された作品であり內容は、フェレイラ敎父が長崎で「穴吊り」の拷問をうけ、棄敎を誓ったとローマ敎會に報告される。その眞相を確認するために日本に派遣される主人公であるセバスチャン·ロドリゴも同じ過程を經て「摩滅した踏繪」を踏むことになる。殉敎と棄敎の間で惱む人間の弱さと、にもかかわらず黙っている神の沈黙の前で、ロドリゴが踏み繪を踏む選擇をすることについて語る小說であるが、その選擇の背景には、日本におけるキリシタン彈壓の歷史と、唯一神が根を下ろせない日本の精神風土があった。  本論文は、フェレイラ神父が弟子であるロドリゴ神父を轉ばせるために語っている、「この國は沼地だ。この國は考えていたより、もっと怖ろしい沼地だった。我はこの沼地に基督敎という苗を植えてしまった。」という日本の沼地性はいったい何かを考察するのに目的がある。  遠藤は、その沼地性を「この國には、どうしても基督敎を受けつけぬ何かがあったのだ」と語るのである。論者は、その「何か」の背景にあるのが堀辰雄が回歸した日本古代の大和文化であり、どんな物も作り変える力と、汎神的な精神風土であると考えながら論を進めていく。  そのような精神風土のなかで、神のために人間が死んでいるのにも關わらず神は沈黙している。そして、ロドリゴが信徒たちの呻き聲を聞きながら彼等のために踏み繪を踏もうとするとき、〈イエス〉が沈黙を破った。〈神〉は<イエス>を通して沈黙を破ったのである。  この〈キリストの聲〉は、日本的精神風土においてしか出會うことのできない神であった。そして、〈造り替える力〉が要求する聲であった。日本におけるキリストの聲は、そのような形で沈黙を破ることしか出來なかったのである。しかし、人間が自分自身のなかで、自分だけに聞こえる聲を聞いている限り、決して神は沈黙しているのではない。  遠藤の〈愛の神〉への轉移の過程には、自分を與え、愛のために自分を犧牲にする〈イエス〉を拔きにしては考えられないのである。『イエスの生涯』はそのために書かれたのである。