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本研究は壬亂と丁酉倭亂の際、日本軍に生き捕らわれ鹿児島に行った朝鮮人捕虜に考察してみたものである。ある朝鮮側の記錄によると、鹿児島には朝鮮人捕虜がおよそ3万7百余人も居ると表現しているように、驚くほどの大勢の朝鮮人たちが住んでいた。彼らを刷還しようとする朝鮮側の努力はあったが、故国に戻ってきた人たちはそれほど多くない。鹿児島に残った人たちは多樣に活用された。そのなかで奴隸のような状況で生きている人があり、兵術を身につけ薩摩の雜兵になった人もあり、そして自分の能力が認められ武士として出世する人たちもあった。特に士族になった人は次のような三つの部類があった。一つは朝鮮でも兩班出身で漢学に精通していている人で、彼らに學問的な師匠になる人である。もう一つは醫術または養蜂のような專門的な技術によって拔擢される人であった。そして最後には女性で武士と結婚した人である。この場合は殆んどが後室で迎えられるた人であった。 1597年(慶長2)朝鮮軍に捕虜になった福田勘介の陳述によれば、朝鮮人捕虜たちは戰爭で生じた勞動力の不足を補う資源として活用すると言った。このような彼の言葉は、鹿児島の朝鮮人捕虜においても決して間違わなかった。しかし彼らの鹿児島の定着はただ単純に不足している勞動力を補うためのことではなかった。その範圍はもっと広く大きかった。彼らは鹿児島が必要とする分野つまり、奴隸から雜兵, 武士, 醫師, 養蜂そして婦人など至る所まで、實に多樣な分野で活用されているからである。そうしただけに彼らが鹿児島に残した文化的な痕迹も多く残っている可能性もある。もしそのようなものがあれば、これからそれに関する硏究も続けて行かなければならないであろう。