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本論文では、聖徳太子伝の世界で広く知られていた、達磨が日本に渡来したという説話を中心に、その展開の様相と、日本における内容の変容を、時代の変遷に従って概観し、更に、従来指摘のなかった増補系聖徳太子伝における新たな達磨説話を分析した。中国においては、死後、再び西の国に行く姿が目撃されていた達磨だったが、その神仙的要素が作用したのか、日本では達磨が日本に来たという説が広まっていた。それは、聖徳太子の伝記の中で見られた現象であった。聖徳太子の伝記に達磨が登場したのは平安時代だった。所謂片岡山飢人説話で、聖徳太子が出会った飢人が達磨であったという説が生まれていた。これは『日本書紀』の段階では存在しなかった解釈である。そして、中世には達磨渡来譚は完全に定着していた。そんな中、仏教伝来以前の日本に達磨が渡来して馬に変身し、馬小屋で誕生した聖徳太子と出会ったという説話が、増補系聖徳太子伝に登場するようになった。増補系では、勝鬘夫人から延々と転生を繰り返し日本に仏教が伝わっていった過程の中に達磨を位置づけ、太子誕生と結びつけることで厩舎という場所に新たな意味を付与していた。そして、この舞台となったのが、橘寺であった。聖徳太子誕生の場所であり、勝鬘経講義の場所でもあった橘寺では、この系統の聖徳太子伝が伝えられていた。橘寺はこの説話の成立とも関連があるのではないかと思われるが、この点は更に実証的な資料発掘が必要となろう。