초록 열기/닫기 버튼

本稿は『蜻蛉日記』における「人の心」と「わたくしの心」という対比する表現をキーワードに、道綱母の不幸意識の基底について考察してみた論である。道綱母の結婚生活は平安時代当時の社会的な通念からはそれほど不幸ではなかったということは、上巻に記述された記事などから読み取られる。それにも関わらず、世の中と他人という「他者」の視角とは異なり、自らの結婚生活を不幸なものとして捉えている作中話者の意識がどこに根差しているのかを、兼家の心の行方に悶々とする道綱母の心に着目して考察してみた。『蜻蛉日記』に「人の心」という表現は7例あるが、すべて夫の兼家の心に用いられている。そのうち6例は幸福な結婚生活に関する記事の多い上巻に用いられており、中卷に用いられている1例は969年東三条院の新邸入りをめぐって道綱母の心境が絶望的であった時期に用いられている。その後「人の心」という表現は用いられなくなる。このことから、道綱母が自分に対する夫の心をある程度信じて期待をかけていた間は「人の心」の行方に悶々とし不安がっていたものの、夫の心の程度が明らかになり現実を認識するようになった後は「人の心」という表現も用いられなくなったということがわかった。要するに、道綱母は結婚してまもなく「わたくしの心」とは異なる「人の心」の行方に気を揉みつつ自らの不幸意識を増幅させていたが、その意識の中には夫に対する不信感と共に期待をも依然として持っていたと言えよう。なお、道綱母の不幸意識を芽生えさせた夫の心に対する不信は先天的なものではなく、求婚の過程から赤裸々に現れた結婚への期待と現実との落差に拠ったものであり、人一倍の道綱母の自意識もまたその不幸意識をより深めたと思われる。