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伊勢信仰は、皇祖「天照大神」の出現と天の岩屋戸神話の基盤となった祭祀儀礼との関連において、特に天皇家の支配形態と即位儀礼との関係を究明する上でとりわけ重要である。古代日本の日神と伊勢信仰と関連して注意すべきことは、推古朝まで日神はあっても、天照大神の観念はなかったことである。さらに用明天皇の皇女の酢香手姫が、用明․崇峻․推古天皇の三代三十七年間にわたって伊勢神宮に仕えたあと、天武朝に天皇の戦陣における神宮遥拝やオホク皇女の斎王任命の記事があるまで、斎王派遣や奉幣など公的な祭祀や崇拝の記事は全くみられない。つまり天武朝において、あらためて天照大神と伊勢神宮はともに浮上し、その画期となった事件が壬申の乱である。大海人軍が伊勢北部に至ったとき、大海人皇子は天照大神を遥拝したことが日本書紀に見える。任申の乱に活躍した高市皇子の死に際し、柹本人麻呂の作った挽歌(万葉集巻二1199)により、任申の乱のときの状況が推測されるが、大海人皇子の側が勝利するのに、伊勢神宮の援助が大きな力となったことがわかる。天武は即位する年(673)に、大来皇女を斎王に任命し、皇女はその翌年伊勢に参向した。 このように伊勢信仰は、天武朝による古代王権の成立と不可分の関わりがあり、天孫降臨神話を前後にして拡大してくる穀霊信仰、それから新嘗祭及び大嘗祭との関わりを無視しては考えられない要素がある。天の石屋戸隠れの物語は、大嘗祭の意味を語る神話の前段に当り、天孫降臨神話はその後段に当る。天照大神が天の石屋戸から外に出るということは、更生した新しい太陽の出現、すなわち日の御子の誕生であり、同時に新穀の御魂(稲魂)の降誕であるという祭儀的意味が重なり合っている。践祚(即位式)という伝統的な皇位儀式があるにもかかわらず、天武․持統朝に大嘗祭が皇位継承の儀式として新たに加えられたのは、壬申の乱を発端とする当時の政治状況にある。天武天皇の殯宮儀礼に相次ぎ、その大嘗祭が「践祚(即位)」と並ぶ天皇一世一代の公式 「皇位継承儀礼」として登場したのは、持統朝である。天武天皇によって統一国家が形成されたこの時期に、「国家」として最大の祭祀儀礼がはじめて成立し、それを継承したのが持統朝である。 ところが伊勢神宮は天武朝に至ってその性格を少しずつ変え、それまでの東西の横軸を南北の縦軸に変えた。その主な理由は、宇宙の太極を北極星の位に求めた中国哲学を受け入れた天武朝は、この太極を天皇の位に比定し、北辰の名称である天皇大帝の名をその首長の名称としたからである。このように伊勢神宮は、天皇の地位と不可分の王権守護神として成立され、天武․持統朝において、オオヒルメムチから昇格されて皇祖神となった天照大神は、やがて民間から私幣をたてまつることさえ禁止される神となっていく。つまり古代における伊勢信仰は、天武系の専有物であって、決して在地の伊勢の民間信仰の産物ではなかったのである。


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太陽神, 天照大神, 伊勢神宮, 鎭魂儀禮, 卽位儀禮