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「われらの時代)」(59.7)を書く頃、牧歌的な小説家から現実的な小説家へと方向転換を意図した大江は、日本の現実を描く自分の武器として「性的なもの」を選択した。これは大江が現代の日本青年を「性的な人間」と捉えたことと密接な関わりがある。そうした大江の考え方を書き表しているのが「われらの性の世界」(『群像』59.12)というエッセイである。本稿の目的は、このエッセイの構成および、そこに説かれている「政治的な人間」と「性的な人間」の概念を明らかにすること、さらに、このエッセイと「性的なもの」を方法として書かれた小説との相関関係を明らかにして、大江文學におけるこのエッセイの相互コンテクスト性を究明することにある。「政治的な人間」とは、マックスㆍウェーバーによる、「責任ある職業的な政治家とは、醒めた現実認識をもって、権力闘争を戦い抜く人物>という定義の「勸力」を「主体」に、「主体の自由」に置き換えると、大江の「政治的な人間」の概念に近づき、レトリック的にいって譬えられるものと譬えるものとの関係がカテゴリの移動に基づく暗喩に当るといえる。また、いかなる他者とも対立せず、受け入れ、従属する人間を「性的な人間」と命名したのは、直説法的な概念でも、近接性に基づくた換喩的な比喩でもなく、受容と快楽という本質的な類似性に着目した暗喩的な比喩である。しかし、小説の登場人物によって形象化された「政治的な人間」と「性的な人間」には、暗喩的な意味と同時に直接法的な意味を与えられていることを確認した。さらに、この二重性は『われらの性の世界』のa章とb章において見られる二重性でもある。aにおいては、現代の人間の性の世界がイメージに依存して直説法的に書かれているのに対して、bの中心となる「政治的な人間」と「性的な人間」という概念はイメージではなく、暗喩に依存する概念なのである。つまり、小説における表象の二重性は、「われらの性の世界」の叙述の仕方に見られる二重性と呼応するという、相互コンテクスト性が指摘できるのである。また、このエッセイに紹介されている三つの性の在り方、すなわち生命の光輝としての性、悲惨ではあるが人間的な暖かみのある性、不毛の性も、大江の小説に描かれている性の世界と、描かれる頻度の違いこそあれ、呼応しているといえる。