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本研究は壬辰の倭乱(文禄・慶長の役)の際、朝鮮半島に渡って虎に接し、これを狩った日本武将たちがどのように一般大衆に受け入れられたかを考察するのに目的がある。壬辰の倭乱の時、一番虎狩りに熱心だった人は 島津義弘、忠恒の親子だった。彼らの活躍ぶりは『狩虎記』、「島津家朝鮮虎狩絵巻」(江戸時代19世紀 42×684cm 紙本着色 九州国立博物館所蔵)と「高麗虎狩図屏風」(伝永井慶竺、都城市立美術館所蔵)、そして薩摩琵琶歌「虎狩」に採録されて今まで伝わっているが、彼らの領地の中でばかり享受されている。非常に地域的だと言える。そして早くから『羅山文集』、『常山紀談』、『朝鮮征伐軍記講』、『絵本太閤記』にも載せられた黒田長政の部下、後藤又兵衛と菅政利の虎狩の話は多くの記録に出ているにもかかわらず大衆に対する影響力はほとんどない。それに虎狩を芸能化させた虎舞がある。虎舞は加藤嘉明が主類だ。これも地域祭りを脱することができなかった。それに比べ、朝鮮半島で虎狩りをした武士の中でただ加藤清正だけが江戸時代末期に急に大衆から愛されるようになる。その背景としては江戸時代の国学の隆盛を挙げることができる。国学のナショナリズムとともに朝鮮半島を侵略した加藤清正が英雄化の道を歩み始める。それが『絵本太閤記』をはじめとして浮世絵などで庶民文化として浸透していく。このように江戸時代末期に作られた清正の英雄的なエピソードである虎狩は明治時代に入ってもっと発展する。加藤清正について書かれたほとんどの書籍に虎狩の場面が描かれている。加藤清正の虎狩は明治時代以降にも日帝時代の教科書、軍歌などにおいて日本の軍国のアイコンとして使われ、今や虎狩の代表的な存在になっている。