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近代転換期の日本では、happinessはその意味が運や福のように私的領域に属する場合は幸、天賦人権のような公的領域に属する場合は幸福に翻訳された。そして、このように意識的区分された翻訳語の幸福は「国民一般」を主体とする文明の象徴として登場した。一方、幕府廃止の名分として王政復古をあげて成立した「公明盛大な政体」=「皇国」は、国家(政府)の必要条件として登場した翻訳語の幸福を「皇国」の充分条件に変化させる土台となった。こうした中で「文明」という用語と結合した「維新」を実践する天皇の存在、そして台湾侵攻という近代日本における最初の海外派兵は「国民の幸福」が「国家の幸福」に置換できる意味として認識される決定的な役割を果たした。しかし、こうした間に国家体制の構想から排除されていた「国民」が国会開設を要求しながら能動的に行動し始めながら「人民の幸福」をめぐる談論は複雑な様相を表した。自由党と立憲改進党が第一の綱領として「人民幸福」を採択したのは、その帰結点でもあった。しかし、民権の発展こそ国権の発展を支えるという主張を掲げた自由民権運動の特性上、幸福の主体は「人民」というより国権確立を前提にする「国民」に近いものであった。そして、1887年の保安条例は両政党が掲げた「人民」の幸福を「臣民」の幸福へ収斂させる決定的な役割を果たしたし、「臣民の幸福」を天皇の建言に帰属させる「大日本帝国憲法」が「臣民の幸福」として認識されることで、翻訳語の幸福から始った近代日本における幸福の談論はそのケジメをつけるようになるのである。