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法然から聞き定めた専修念仏の教義を「浄土真宗」と受け止めた親鸞は、その教義の内実を大乗仏教の中心思想へと展開させる。すなわち、「智慧と慈悲」「自利利他円満」の言葉に代表される大乗仏教思想が、『無量寿経』に説かれる「阿弥陀仏の本願(あらゆる者を分け隔て無く救う。いのちの真実を気づかせる。という願い․働き)」に集約されていると解釈し、その本願の働き․仏心を聴聞・聞信し、名(名号)を称え続けていく念仏道こそが、出家․在家を問わない末法時代における唯一の成仏道であることを、自らの主体的な罪業の信知(目覚め)を通して明らかにしたのが親鸞であった。念仏しつつ悟りへ向かって歩む道を「往生浄土」という。親鸞は、伝統的に阿弥陀仏の建立した浄土に往生するのは臨終․死後の時であって、それから浄土で悟りへ至るための修行が始まるといった実体的․二元的な思想を、大乗仏教․真実の浄土教義を理解したものではないと批判する。親鸞は中国浄土教の曇鸞の思想に導かれて、阿弥陀仏․浄土とは、我々に「色もなく形もましまさない」真如․法性․一如․寂滅․法身と表現される真実(悟り)の働きを知らせるために比喩的に具現化した「方便法身」であると解釈する。そして、浄土世界が二元的․実在的に語られるのも我々の煩悩によって形成された娑婆世界(穢土)と悟りの領域(浄土)との質的相違を表すためであったと理解するのである、親鸞はそうした理解を基底にして、大乗仏教思想として説かれた往生浄土の念仏道の本来性を明らかにするのである。よって、親鸞は煩悩具足の身のままに「阿弥陀仏の本願」を聞信する身と成り、在俗生活の中に仏教の真実と出遇い続けていく人生を「即得往生」(浄土往生の始まり)と示し、そのいのちを生き尽くして、娑婆の縁が終わる時を「難思議往生」(浄土往生の完成)と語り、浄土往生思想を末法時代における罪悪深重者の唯一の成仏道であると位置づけるのである。また、そうした思想の中に、大乗の原理を踏まえつつ単純な二元論․一元論を超えた、阿弥陀仏と衆生․穢土と浄土の「非連続の連続․不一不異」といった実践論的構造が伺えることも親鸞浄土教の特色となっている。