초록 열기/닫기 버튼

本稿では日本文学におけるマイノリティ文学を取り上げ、どのようなマイノリティ文学が存在するのかを説明し、その意味と問題点について検討する。「多数派」の反対側に位置する「少数派」はどの時代にも存在した。ところが、その少数派の声に耳を傾けはじめたのは、それほど歴史が長くない。最近、文学の近代性に関する再評価と共にマイノリティ性についての関心が高まりつつあるが、本格的な研究はまだなされていない。マイノリティ文学は多数の言語を以て少数性を実験する文学である。つまり少数派の言葉で試みられるものではなく、多数が構築した空間の中で、主流や権力の言語内部に属する。多数の政治性を批判し、植民地政策に反対するマイノリティ文学といっても、その声を発信するためには、主流の文壇に従属しなければならない生まれつきのジレンマを抱えている。もっと直接的に言えば、主流文壇の芸術的な基準によって価値が「認められた」場合でないと、マイノリティ文学として独り立ちできない。しかし、むしろこういった構造におかれているからこそ、マイノリティ文学は「多数の秩序」を貫き、再構築できる可能性を内包する。マイノリティ文学と主流文学は相互依存的で、補完的な関係にある。マイノリティ文学は多数の中で少数性を追求することで多数を変化させる力が発揮できる。そして、支配秩序に対するマイノリティ文学の異議提起は、結果的に支配秩序の透明性を保証する道具として働く。本稿でマイノリティ文学として取り上げる沖縄文学も、在日韓国人ㆍ朝鮮人文学も例外ではない。「琉球人」「在日」といった少数集団の意識は、「中央」日本と違う自らの感覚、伝統性、被害の記憶と一緒に現代日本文学の一部として位置づけられている。主流の日本文壇にとって彼らの存在は余計者ではない。むしろ既存の日本文学が把持できなかった文学の社会性や政治性を達成した点で、新しい日本文学の可能性を見出している。マイノリティ文学がマイノリティ性を無くした途端それは忘れ去られるだろうが、マイノリティであるかぎり、マイノリティ文学は「多数」にはない、マイノリティ文学独自の可能性を提示し、「主流」を刺激しつづけることができる。