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國學の集大成者といわれる本居宣長の思想が我々に常に「一つの挑戰」である所以は何なのか。「實情論」「人情論」「物のあわれ論」などの宣長の歌道論については共感や魅力を覚えながらも、獨斷的な「漢意論」に基づいた古道論に対しては疑問を感じざるを得ない。だが、本稿はこうした「歌道と古道の關係」を取り扱うものではない。ただ「物のあわれ論」はその問題を解くうえで一つの手がかりになるといえよう。ここでいう「物のあわれ」とは度々「纖細な交感の世界」、「物事に対する感受性」、「物事に感動できる能力」、「何にせよ深くて切ない感情を産み出すもの」、あるいは一般に「悲哀や憐憫の共感をもたらすような物事のパートス」などを意味する語といわれてきた。ところで、宣長は主に『石上私淑言』 『紫文要領』 『源氏物語玉の小櫛』などにおいて「物のあわれ」の語に注目し、歌および物語なかんずく『源氏物語』に共通の本質がこの「物のあわれ」の一言にあると主張した。その際、彼は從來の佛敎的あるいは儒敎的敎戒の立場からの文藝の捉え方に対抗して、文藝の本質を道德的政治的な敎訓や效用性にではなく、「物のあわれ」をしること、また「物のあわれ」を人にしらしめ共同化することに求めた。こうした宣長以来「物のあわれ」は日本文學一般の本質を表す語として通說化してゆき、しかも物事に対する共感や一體化するような對象的感受性として、さらには他者を深く思いやり広く人情に通じることとして、日本人の情操を表す代表的な用語としても流通していくことになった。だが、宣長の「物のあわれ論」は決して簡単ではない。それは純粹文學論と美學論、人間學と神學、文化論と政治論、存在論と認識論のみならず、主體と對象、規範性と非規範性、知性と感性とのあいだに横たわっている。本考の目的は、このような複雑さを念頭におきながら、本居宣長の「物のあわれ論」の構造的特徵を主體と對象の問題として把握する一方、「感性的認識論」の觀點からそれを再考することにある。ひいては本稿の目指すもう一つのビジョンとして、宣長國學に內藏されている精神的な志向性や「物のあわれ共同體」とかかわる洞察がいえよう。