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本研究では、外記、官史、樂人、武官(随身)職を中心に渡来系の技能官人について概観してみた。まず、外記と官史職は奈良時代から平安中期以降まで渡来系官人が連続的に登用されていた。雅楽寮中心の伝統的な雅楽体制は平安時代に移ると、唐楽と高句麗楽の両部体制に改編され、渡来系の中では多、狛、豊原氏が楽家の家柄を形成していきながら、左右近衛府に所属され競馬や相撲などのような武芸的な儀礼の場で奏楽を行うようになった。また、武官職においては、平安前期までは天皇を頂点とする天皇権力の保護や蝦夷征討の国家的な事業に活躍していた渡来系武官は、随身という藤原氏の個人的な身辺警護者、または競馬‧相撲などのような摂関家の藤原氏を中心とする宮廷の武芸遊戯のための役割が多くなっていた。平安前期までは、天皇と個々の官人の君恩‧奉仕の関係を主軸とする律令官人秩序の基本が維持されていたと言えるだろう。ところが、承和の変という政変により、少数貴族による官職の独占化が進み、また、叙爵制度が改変され特定官職における年労のみが評価されるようになっていく。即ち、官人たちは恣意的な抜擢より制度によって保証された定期的な昇進を望むようになった結果として、外記、官史、近衛少将‧弁官出身などの様々な昇進コースが形成されていくのである。また、昇進の様相の特徴をみると、摂関家だけではなく、藤原氏の中で実資、行成などの政界の有力者との家主と家司の個人的関係による忠誠と給官の形も多くみられた。本稿での秦、惟宗、菅野氏は奈良時代から五位以上帯位者を出しており、平安中期以降は固有の家柄を形成していった。これに対して、日本出身の氏族をみると、官務系として小槻氏と中原氏が、随身においては尾張氏と播磨氏がそれぞれの家柄を形成している。これらの氏族は奈良時代には活躍がみられない新しい氏族である。このように、日本出身の氏族は、時代ごとにその登用において断絶性がみられるが、渡来系官人は連続性をもって官僚制秩序に組み込まれていったと言えるだろう。これは古代の中‧下級の官人社会においては、渡来=才技‧技能を象徴する存在として位置づけられていたと考えられる。従って、日本的な蕃の意識によって他民族支配の象徴であり、永遠に日本の王権に帰属されるべき存在としてとらえられていた既存の渡来系氏族に対する認識を見直して、平安中期以降は固有の家職を保持する技能的な集団としてとらえる必要があると思う。