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1872年の学制で決めている14の教科目のなかに唱歌と呼ばれる西洋音楽を置いた本来の目的は、子供の情操や身体の発達を強調した音楽教育本然の純粋な意図によるものであった。それが明治20~30年代を前後にして忠君愛國思想を根幹とする國家主義思想の発現によって、本来の教育的な意図とは違う、近代国民国家に相応しい臣民としての自覚を植え込むための道具と化する。これはまぎれもなく日本の近代教育思想史の根底に流れている定説なのだ。しかし、最近筆者は、近代日本の音楽教育の開始に関するこのような定論を疑うようになった。その理由は、いくら明治新政府の初期教育政策が個人の自立と私的利益を追求するという、西欧の近代国民国家に見られるような教育の普遍的な価値を指向したとはいえ、功利主義的価値や公共性、道徳教育を通した愛国心の涵養といった、近代国民国家に相応しい国民の規範形成に教育の究極的な目標を設定し、またこれを実現するための方法を不断に講究してきたということを見逃すわけにはいけないからである。従って、本稿は、国民国家を目指した明治新政府が国民教育の一環として導入した明治期における唱歌教育の在り方をもう一度再検討することによって、従来「智育」から「德育」という単線的視線で捉えてきた教育思想史の流れから脱皮し、最初から国家主義、愛国主義教育観を最高の教育的価値として設定し、それを実現するための一方便として唱歌教育が行われたということを明らかにするものである。