초록 열기/닫기 버튼

本稿は慈円の道理史観の限界と言語観について分析したものである。『愚管抄』は慈円という一個人が日本の歴史を顧み、歴史を貫く道理を省察した思索の記録である。慈円は歴史には大小軽重の数多くの道理があるという。慈円の主張によると、その道理のなかで一番大事な道理は天皇家の継続であり、摂関家と武家は天皇家を補佐する役割を果たす臣下の家柄であるということである。新しく登場した武家を天皇を補佐する臣下として位置づけている点では進歩的な見解であるが、依然として天皇、摂関による政治を物語っている点では自分の出身という制約から自由ではないといえる。自分が理想とする政治体制を冥顕の二元論で説明してはいるが、すべてを摂関家の立場から合理化している限界がある。一方、慈円は『愚管抄』を仮名で書いているが、今までの歴史書が漢文で書かれたことを考えると甚だ意味が大きい。もちろん『大鏡』や『栄華物語』のような歴史物語も仮名で書かれているが、慈円はその伝統を引き受けながらも、物語とは異なる自分の思想を日本語をもって伝えるという新しい形式を完成したといえる。しかもなぜ漢文ではなく日本語であるかについて自覚的であり、〈伝達性〉を重視し、仮名で書いた史論という新しい形式を完成したのである。