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平安時代(九世紀)に入ると、前代に国家的事業として行われた一切経の書写の重要性が薄れ(28)、従って諸経疏にわたる勘経も行われなくなったであろう。替って、奈良時代の国家仏教を代表した南都六宗の、三論宗·成実宗、法相宗·倶舎宗、華厳宗、律宗が、信仰内容に応じて必要な特定の経典のみを写経し講説するようになって、固定的な宗教色を強めて行く。その結果、訓点の内容が変質する。 勘経は正確に書写することが主目的であったとしても、次第に本文の内容を深めて、加点箇所も広がり、加点内容の訓点の種類も、時の推移と共に句切点·返読符から真仮名·省画仮名が加わり、更にはヲコト点も加わり、次第に平安初期 (九世紀) の訓点表記に近づいていたと考えられる。勘経における訓点は平安初期訓点の前段階として連続性を持っていると見られる。 平安初期 (九世紀) の訓点の識語には 「講·講師」 「聴·聞」 の語が多く見られ(29)、十世紀に入っても南都を中心に続いている。これは、各宗派が所拠経典を講説したことを語っている。経典の講説は、既に天平十二年(七四〇)の審詳による華厳経に始まっているが、平安初期 (九世紀) の各宗の講説はその影響を受けつつ、白点·朱点が訓点表記を担う方法を手に入れて、訓点を独自に発達させたと考えられる。その訓点は、仮名 (真仮名·省画仮名)とヲコト点と諸符号(返読符·合符等)である。それらの発達については、既に多くの訓点語学者によって説かれているのでその概説的な説明は繰返さないが、ここでは勘経という新しい視点からヲコト点の成立に触れることにする。ヲコト点の展開を勘経との関係から解明するのは今後の課題である。仮名や返読符·合符などの展開についても勘経との関係から見る必要があるが別の機会を得たい。