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奈良時代の新羅と日本との仏教交流について考察してみたが、整理すると次のようである。 第一に、日本学会は、7-8世紀に形成された日本文化が遣唐使による中国の影響であると主張しているが、再検討しなければならない。たとえ ば、飛鳥仏教は百済の仏教と密接な関係であったが、舒明期は中国に派遣された学問僧と留学生が在唐中に新羅の学問僧と友好関係になったのである。また彼らは新羅側の配慮で日本への帰国が出来たのはもちろんのこ と、新羅に立ち寄って新羅の仏教界と友好関係を維持したのである。結 局、これは百済の仏教と強い連帯をもっていた飛鳥仏教とは裏腹に、新羅とつながる新しい路が開かれていたことを意味するのである。したがっ て、新羅の韓半島の統一以後、日本はすぐ遣新羅使を派遣して色々な文化を受け入れることができたのである。 第二に、8世紀に入っても新羅と日本との交流は盛んであった。7世紀の後半から8世紀の初にかけての約30年間、遣唐使の派遣は中止された。しかし日本は遣新羅使を派遣して律令をはじめ仏教などの大陸文化を受け入れた点に注目しなければならない。特に、日本の仏教界は新羅と密接な関係をもっていたのである。すなわち、天武朝から文武朝までに、約14人の新羅の学問僧が派遣されている。彼らは当時新羅の義湘と元暁によって発達された華厳宗を持って帰ったのである。これは鎌倉時代に明恵が描いた華厳祖絵伝からうかがうことができる。すなわち、華厳宗の祖先は当然、唐の法蔵を描かなければならない。しかし、彼は新羅の義湘と元暁、特に義湘に大きな尊敬を表したのである。これをみても、新羅の華厳宗が日本に及ぼした影響は大変大きかったことをうかがうことができるのである。 第三に、752年新羅の王子である金泰廉の訪日をあげることができる。当時新羅と日本は外交的な紛争が起きて、お互いに使節を追放するなど、緊迫した関係であった。しかし、新羅は王子である金泰廉をはじめ700余りの大使節団を日本に派遣したのである。彼らはその年に造営された東大寺の盧遮那大仏と、新羅に留学して華厳宗を学んだことがある審祥の大安寺に参拝するのに、その目的があったのである。続日本紀では短い記事しか見えないが、新羅がこの仏教の参拝に大きな意味をもっていたからこ そ、700余りの大規模の使節を派遣したのである。これは結局、奈良時代における新羅と日本との密接な仏教文化の交流を意味すると言っても過言ではないのである。