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本稿は「落照」を発表と中断をめぐって金史良の作品世界、特に後期の作品世界との関連性について考察したものである。「落照」は1940年2月から翌年一月にかけて朝鮮日報が発行していた雑誌朝光に連載したもの で、発表時期から見ると後期の作品とは言えない。しかし、金史良の後期の朝鮮語での創作と深い関わりがある。 「落照」は朝鮮語の作品であるだけに、金史良が朝鮮の読者に訴えようとしたメッセージの一つは、朝鮮の前近代的な早婚という弊習への批判にあったことを容易に察することができる。これは日本語での創作には見られなかったもので、日本語での創作が植民地「朝鮮の現実」を描き、その現実を訴えようとしたものであったのに対して、朝鮮語での創作は前近代的な旧習を指摘し、民衆(読者)が前近代的な思考から脱皮し、近代的思考に目覚めることを訴えようとしたものとして受容できる。 また「落照」発表の当時というのは、周知のとおり日帝の言論弾圧がもっとも厳しくなっていた時期であったことも見逃してはならない。1940年8月には朝鮮の二大新聞であった東亜日報と朝鮮日報が日帝によって廃刊され、「落照」連載三ヶ月後の1941年4月には文章、人文評論、新世紀などが強制廃刊された。このような状況を考えると「落照」は、「朝鮮の現実」を描くことに失敗したのではなく、描けなかったというのが妥当である。即ち、「落照」の中断は金史良の展開と構成した通りに描けないといった、当時の時代的制約のためでもあったことになる。 面白いことに、金史良は「落照」を中断したまま、その二ヶ月後からは日本語の創作に「せつせと(略)耽」り、数多くの作品を発表している。しか し、「落照」中断から約三年間(二年八ヶ月)も、朝鮮語の創作には手を出していない。つまり、1943年10月「海軍行」を書き、政策文学に手を染めるまでである。というのは、朝鮮における朝鮮語による創作活動がいかに難しかったかを証明する事実として、受け入れざるをえないのではなかろうか。 かくして「落照」の中断は、金史良が追求して来た文学的テーマを描くことが不可能であるという、時代的現実への認識があったからであり、また以後の作品展開の伴う厳しさと難しさとを実感せざるをえなかったという帰結を示しているのであったと言えよう。 ともあれ、「落照」は金史良にとって、植民地朝鮮における朝鮮語を用いた創作活動の難しさと厳しさを実感․体験させた作品であったと言って良い。


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言語弾圧, 朝鮮の現実, 政策文学, 植民地朝鮮, 朝鮮語での創作