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谷崎潤一郎の「支那趣味」及び「上海」を論ずる上で先ず念頭に置く必要性があることに、氏が生涯にわたって中国と関わりつづけた作家であるという点と二回に渡る上海行きである。 第一回の中国と上海旅行が谷崎の創作意欲を刺激し多くの「支那趣味」作品を書く原動力となったに対し第二回の中国と上海旅行の後の谷崎は「支那趣味」の文学を創出する意欲をまったく失ったように見える。谷崎が「支那趣味」の小説や随筆を作り出したのは大正6年(1917)から大正15年 (1926)の約10年間に集中しその後はまったく中国を舞台にした「異国趣 味」の作品は見られないのが特徴である。 第二回の中国と上海旅行を大正15年(1926)1月6日から2月19日までの期間にかけて行なった谷崎はその体験話を上海見聞録上海交遊記という作品の形でその年に発表した。しかし、変わったことに作家谷崎は中国に関する作品を書かなくなってしまうのである。大正15年(1926)に上海で青年文学家である田漢、郭沫若、欧陽予倩らと出会った谷崎は本格的な「支那趣味」の文学から離脱してしまう。上海で中国の若い知識人たちとの対話を経験した作家谷崎は中国を材料にした異国趣味の作品を披瀝することに困難を感じていた。つまり谷崎において現代中国と上海は幻想や空想などを作品中に展開するに相応しい異空間ではなかった。 第一回の中国と上海旅行による谷崎の「支那趣味」の文学が作家の中国に関する独白であったとすれば第二回の中国と上海旅行の上海見聞録は対話なのである。事実、大正7年(1918)の第一回の中国と上海旅行では、谷崎は中国人の対話の相手を発見できなかったのである。上海の青年文学家である田漢、郭沫若、欧陽予倩らとの対話を通じて谷崎の中国と上海の認識が一面的なものであることを理解できた作家は、自由奔忙に異国趣味を展開し自己満足を得られなくなる。事実、谷崎は第二回の中国と上海旅行以後は、 「支那趣味」の文学に戻ることがなかった。しかし、「支那趣味」の放棄は中国と上海の関係が断絶されたことを意味するのではなく、中国と上海を客観的な他者として見るのではなく上海の若い青年文学家らとの交際を通じて関係を持って行くのである。


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支那趣味, 谷崎潤一郎, 異国趣味, 上海見聞録, 上海交遊記, 田漢