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對馬島を通じて行われる韓日關係の外交と朝鮮語の敎育に多年にわたって活動した雨森芳洲について硏究することは韓日交流の硏究の一助となることで意義がある。豊臣秀吉以後,政權を支配していた徳川幕府は善隣友好の外交政策に基づき、對馬島島主を仲介として、朝鮮との善隣友好の關係を確立していた。徳川幕府の江戸から対馬藩に派遣され1703年から 1705年まで釜山の倭館で 韓國語を学び、朝鮮の日本語事典である『倭語類解』と朝鮮語會話の學習敎科書である『交隣須知』、1714年『隣交始末物語』、1728年 『交隣提醒』、1735年『治要管見』などの本を作って朝鮮語の敎育と善隣友好の交流と対朝鮮外交に努力した儒學者雨森芳洲について考察した。本論文では、朝鮮通信使と雨森芳洲の役割および韓日關係を考察し、また雨森芳洲の『治要管見』『交隣提醒』などを參考しながら、雨森芳洲の思想と朝鮮語の敎育と九州方言について考察した。また雨森芳洲が對馬島にで朝鮮通信使を接待しながら朝鮮と交涉したことを考察した。朝鮮交接之儀ハ、第一、人情事勢を知り候事肝要ニ而候。朝鮮と交接する方法意義は、まず人情と事勢知ることが緊要である。と言っている。天和年日本道中之列樹、何れも古木二而、枝葉を損し候體無之侯を見被申候而、法令之嚴肅(ケンシク)成故二候と、三使殊外感心被致候由二候。誠信之交と申事、人々申事二候へとも、多ハ字義を分明二不仕事有之候。誠信と申候ハ實義と申事二て、互二不欺(ウ)不爭(ハ)、眞實を以交り候を誠信と は申候。と言って誠信友好に交流した。